翻訳とは学び伝えることだと思われている。これは、翻訳者の立場から翻訳をみたときにいえることである。だが、もっと広い視野からみるなら、翻訳者が学び伝えようとするだけでは、翻訳は成立しない。学ぼうとする読者がいなければ、翻訳は不可能になる。外国語で書かれた知識や情報を学ぼうとする読者がいるから翻訳は可能になる。したがって、こういえる。ひとつの言語を共有する人たちの集団を民族と定義するなら、ある民族が別の民族から学ぶ一助になるのが翻訳なのである。日本人にとっては、人種はどうであれ、日本語を共通項とする日本民族が他の民族から学ぶ過程の一助になるのが、翻訳である。翻訳をこのような観点から眺めたとき、翻訳は不可能だという主張がじつのところ、翻訳は不要だという主張にほかならないのではないかと思えてくる。たとえば、インディアンに種を蒔く人の話をしても、頭がおかしいのではないかという反応しかないのだから、聖書を翻訳してあげるのは無駄な努力だと感じているのではないか。世界に誇るフランス文化があるのに、古代中国の遅れた文化のなかで生まれた漢詩を一般読者向けに訳す必要などないと感じているのではないか。熱帯雨林の民であれ、インディアンであれ、聖書を学びたいと熱望すれば、宣教師にいわれるまでもなく翻訳をはじめるはずである。フランスの国民が漢詩の世界に興味をもつようになれば、数少ない研究者は引っ張りだこになり、解説書や研究書を書くだけでなく、翻訳をするように各方面から依頼されるはずである。そういう状況があれば、翻訳が可能か不可能かを論じようとはがれも思わなくなる。「おびただしい説明」が必要なら、それをどうくわえれば良いかだけが問題になる。